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この、コスターなる人物については、オランダ人の歴史家ハドリアヌス・ユニウス(Adriaan
de Jonghe Hardrianus Junius)がその著書『バタヴィア』(オランダ年代記 Batavia
1588年刊)に、活版印刷の始祖として記述しているようです。Douglas C. McMurttrie著『The
Book』に、この『バタヴィア』にまつわる記述が掲載されているのでその部分を読んでみましょう。 | ||||||||||||||||||||||||
コスターはある日、いつものように森の中を歩きながらなにげなく木の皮を拾った。そこに文字を刻み込んで紙に押しつけると文字が写ったことから、彼は活版印刷を思いつく。コスターは娘婿のトーマス・ピータースゾーン(Thomas
Pieterszoon)を協力者に、本腰を入れて開発に着手し、より大きな紙への印刷に挑戦、そしてより適したインクを開発した。ちなみにこのピータースゾーンの4人の子供は後に皆ハールレムの名誉ある地位についており、卑しい身分の血筋からはこうした発明は生まれにくいということがわかる。さて、コスターはいよいよ木活字を使って絵本を印刷した。 | ||||||||||||||||||||||||
以上が、「活版印刷の発明者=コスター」という説の根幹をなす、コスターに関する詳細な記述の一つです。お気づきでしょうが、文中の泥棒「ヨハン某」は、暗にグーテンベルクを指しているようないないような……。 こうした「活版印刷コスター発明説」は、後の世の17世紀から19世紀の長期にわたり、特にご当地オランダを中心に支持されました。グーテンベルク説を支持する輩がいようものならもう非国民扱いで、国を追われる者さえいたようです。グーテンベルク説支持の立場をとったアントニュー・バン・デル・リンド(??)(Antonius Van der Linde)博士もそんな一人ですが、移住先のドイツでは当然グーテンベルク説が信奉されていたので、博士は厚遇されて国立図書館長にまで任じられたとか。 このように地元ではかなりの支持を得たコスター説ですが、20世紀となった今日、ほとんど聞かれないのはなぜでしょう? 簡単に言えば「証拠がない」の一言に尽きます。「印刷物であれ、書写本であれ、印刷術発明に関してコスターの名の記るしてあるのは、いずれも発明後百年以上を経過したものばかり」(庄司浅水著『印刷文化史』)では、信憑性が薄いと見られてもしかたがないでしょう。コスターの場合、重大な金銭トラブルから裁判沙汰を余儀なくされたグーテンベルクと違って、当時の裁判記録に印刷との関係が克明に記載されていることもありません。また、グーテンベルクの『四十二行聖書』のような、確かに本人が印刷したと確認されているものも皆無です。上記の『救済の鏡』などの古い木版画の絵本はオランダに確かに存在するのですが、コスターとの関係は証明できません。 ところで、活版印刷術の祖として名前のあがった人物は、実はオランダのコスター以外にも何人もいるのです。イタリアのパンフィロ・カスタルディー(Pamfilo Castaldi)、フランスのプロコピウス・ワルドフォーゲル(Procopius Waldfoghel)等々……。つまるところ、活版印刷術発明者という一つのポストをめぐって、各国がてんでに自国出身者を候補に担ぎだして主張しあっていたわけですが、種をあかせばひとえに「真実のためではなく、愛国的な自己美化の為だった」(富田修二著『グーテンベルク聖書の行方』)ようです。戦争にこそならなかったからよかったものの、真の歴史を探求する姿勢とはほど遠い、悪い意味でのヨーロッパ的国家主義や民族主義がうかがえるお寒い話ですね。 ともあれ、結果的には泥棒よばわりされずにグーテンベルクが活版印刷の始祖として歴史に名をとどめ、コスターの方は記録の隅に追いやられて忘れられた存在となってしまいました。それでもコスターの故郷ハールレムでは、彼の生家が当時のままに残され、銅像と記念碑が建てられています。死後百年も経った頃に、人々や国の思惑が入り乱れる中で散々振り回されたコスターですが、少なくとも何かしら印刷の創成期に携わった人物として、地元の人々からは敬意の対象として親しまれているのでしょう。 執筆:杉山朋子、村松佳子、蛭田龍郎
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