目薬とモニタ画面の危険な関係

随分前に、NEC製のPC8001というパソコンを使っていたことがあります。

今では信じられないことですが、メモリは何と32Kしかなく、ROMに入っているBASIC言語の他には何にもなし。アプリケーションなんぞ一切なくてな、わしがすべて自分でプログラムを組むんじゃぞ……と、いつの間にか日本昔話風の話し方になってしまうほど、遠い昔のように思えます。

黒い背景に白い文字を表示するPC8001の小さな画面を何時間か見つめていると、眼が疲れて仕事を続けるのがつらくなったものです。

その次に使ったのが、5インチのフロッピーディスクドライブを内蔵した三洋電機製のパソコンです。CP/MというOSの上でWordstarという英文ワープロソフトが使えました。画面表示は黒い背景にグリーンの文字です。同僚のなかに「グリーン→植物の緑→眼にやさしい」という発想から、この画面なら何時間使っても眼が疲れないと主張して譲らない人がいました。

しかし、残業で夜も更ける頃になると、その人が真っ赤に充血した眼でこちらを見るのがとても無気味でした。カラーモニタ付きのPC9801が職場に導入されると、文字をどの色に設定すれば一番眼が疲れないかという大激論が同僚の間で始まりました。暖色系の方が気持ちも落ち着くので絶対にオレンジだとか、背景の黒とのコントラストが高い黄色の文字だとか……。この不毛の議論はいつも決着がつかず、皆それぞれ溜め息をつきながら目薬をさして仕事に戻るのが常でした。

Macintoshを初めて使ったとき、キーボードから手を放してマウスを握るのが煩わしく、瞬時に「仕事がはかどらない→残業が増える→眼が疲れる→視力がさらに低下する」という結論に達しました。

しかし、ワープロソフトMacWriteの白い背景に黒い文字の表示画面はまるで紙の上に印字された文章を読んでいるようで、最初の結論は瞬時に「紙の書類と同じ→読みやすい→眼が疲れない→視力はこれ以上低下しない」に変わりました。

それ以来、 Macintoshの白い背景に黒い文字で仕事をしていますが、結局「紙の書類と同じ→読みやすい気がする→それでも眼は疲れる→視力の低下は防げない→ 仕事はほどほどに」というのがほぼ最終的な結論になっています。これは、画面に紙のメタファを実現するだけでは十分とはいえないということなのでしょう。

モニタ上で文字を読むのは「目が疲れる」し「頭に入らない」から嫌だ、という人が多いのは事実です。

個人的にも、長年にわたってコンピュータの画面で文字を読み続けてきたにもかかわらず、やはり紙の上で読むのが一番楽です。考えてみれば、解像度で比較すれば画面に表示される文字は非常に少ない数のドットで表現されているわけですから、読みづらいのは当然です。

ひと昔前のレーザプリンタでも300dpiの解像度で印字されるのに、Macintoshの画面上は72dpi。1ドット=1ポイントになっているので、画面上では24ポイントの文字が縦横それぞれ24×24=576個のドットで構成されています。

本や雑誌の本文で一般的に使う9ポイントの文字だと、画面上では何と9×9=81個のドットしか使っていません。アルファベットならともかく、そんな少ないドットでは漢字の数多い画数を残らず表現するのは不可能です。小さいポイントサイズの漢字を画面でよく見ると、大胆に省略して作ってあることがわかります。

コンピュータのモニタとして現在主流のマルチスキャンモニタは、画面の解像度を切り替えることができます。

たとえば、640×480dpiから1600×1200dpiまで数段階の切り替えができるマルチスキャンモニタモニタがあるとします。このモニタを使ったコンピュータのシステムが、解像度を切り替えても文字の大きさを常に原寸(つまりプリントしたときのサイズと画面上のサイズが同じ)で表示するようになっていると仮定してみましょう。仮に640×480dpiでは24ポイントの文字が24×24=576個のドットで表現されるとすると、最高解像度の1600×1200dpiでは同じ文字が60×60=3600個のドットを使って表現できることになります。そうすれば、文字は格段に読みやすくきれいに表示されるはずです。

しかし、ご存じのようにMacintoshでもWindowsでも、高解像度モードに切り替えたからといって同じポイントサイズの文字をより多くのドットを使ってきめ細かく表示してくれるわけではありません。単純に画面表示が縮小され、その分表示されるエリアが拡大するだけです。

では、たくさんのドットを使って文字を表現し、紙の印字と同様に読みやすく表示するソフトウェア技術がないということなのでしょうか?

電子メディアによる印刷物の制作工程を大きく担っている技術であるポストスクリプト(AcrobatとPDFもこの技術の応用)は、レーザプリンタやイメージセッタなどの普通紙や感材(印画紙とフィルム)にプリントする装置だけでなく、モニタなどの画面も出力装置としてサポートしています。

画面出力の技術はディスプレイポストスクリプト(Displayという名前で商品化されています。ハードウェアとしては既に消滅してしまったNeXTコンピュータは、80年代の終わりに登場したときからディスプレイポストスクリプトと高解像度モニタ(メガピクセルディスプレイと呼ばれていました)を採用して、オプションの周辺機器だった400dpiのレーザプリンタの出力とあまり変わらない(ように見える)画面表示環境を実現していました。

また、文字の画面表示だけに限れば、一般的なプラットフォームであるMacintoshや Windowsで採用されているATM(Adobe Type Manager、これもポストスクリプトベース)とTrueTypeというアウトラインフォント技術も基本的には解像度に依存していません。したがって、ハードウェアとソフトウェアの技術から考える限り、紙と同様にきれいで読みやすい文字を表示する超高解像度のモニタ画面を備えたコンピュータシステムも十分に実現可能なはずです。

電子メディアにおける情報の消費と流通

それなら、我々が相変わらず目薬をさしながら画面に表示された読みにくい文字と格闘しなければならないのはなぜ?という素朴な疑問が湧いてきます。これはどうも、電子メディアが“情報の消費”のためにはあまり役立っていないからというのが答えのように思えます。

そんな馬鹿な、という人もいるでしょう。確かに、インターネットの普及によって電子メディアで情報を消費する人が増えたことは間違いありません。

しかし、電子メディアによる“情報の生産”と“情報の消費”を量で比較してみると、圧倒的に前者にバランスが偏っていることは明らかです。新聞や雑誌、書籍などの出版物から、チラシや広告、カタログ、会社案内などの印刷物、さらに報告書や論文などの類まで含めれば、あらゆる種類の文書が電子メディアで生産されています。

そのうち電子的に“消費”されているのはほんのわずかにすぎません。大部分の情報は紙という非電子的な媒体の上にまず転写されてから消費されます。

コンピュータの画面は文字を読むのに適さないからだ、という単純な理由ではこれを説明し切れません。これだけの規模の潜在的な需要があることを考えれば「紙と同様に文字が読みやすい目薬いらずのコンピュータ環境」という大きな市場が形成されていてもおかしくないはずです。現実的にそうなっていないのは、何か別の問題があるからに違いありません。

電子メディアにおける情報の生産と消費の間には、それを結ぶ“情報の流通”というもうひとつの局面が存在します。ここでも、電子メディアによって生産された情報のほとんどが紙に載せられて流通しています。

情報が消費されるのが紙の上なのだから流通も紙の形態になるのは当然だ、というのは当たっていません。

なぜなら、電子的に配信された情報が消費者によって紙に転写されて消費されるという形態も現実的に成り立つからです。たとえば、電子新聞を実現するひとつの方法論として、電子的に作成した紙面を毎朝電子メールで配信するというやり方も考えられます。

届いた紙面をそれぞれの読者が必要に応じてプリントアウトして読むということになれば、情報が電子的に流通し、紙の上で消費されるという形態ができあがることになります。

では、情報の生産と流通、消費を一貫して電子的に行うことを阻んでいるのは一体何なのでしょうか?

それを突き詰めると結局、本章の前の部分で考察した“ 内容のポータビリティ”と“表現のポータビリティ”の問題に戻ってしまいます。

この二つの要求を情報の生産・流通・消費を通じて満たすためには、紙という少しも電子的でない昔ながらの媒体に頼らざるを得ないというのが現状の電子メディアの姿です。つまり、内容と情報のポータビリティという要求を満たしながら、なおかつ電子的に情報を載せて運ぶことのできる媒体がないということが根本的な問題なわけです。